胸中洒落の人
江戸時代の儒学者、山崎闇斎(1619〈元和元〉年~1682〈天和2〉年)に、「有感」という漢詩があります。仮名混じりの読み下しにして掲げてみます。
「有 感」
坐(そぞ)ろに憶(おも)う天公世塵(てんこうせじん)を洗うかと
雨過ぎて四望(しぼう)更に清新
光風霽月(こうふうせいげつ)今猶(なお)在(あ)り
唯(ただ)欠く胸中洒落(きようちゆうしやらく)の人
「気持のよい夕立だ。天が世の中の塵を洗い流してくれたように思える。その雨が降りやんで、どこを見ても清々しい眺めだ。光風霽月のような高潔な人は今でもいるけれども、この雨上がりのような、胸にわだかまりを持たない、スッキリと力の抜けた胸中洒落の人はなかなかいないものだ」
このように山崎闇斎は述懐しています。中国の黄庭堅(1045~1105)、またの名を黄山谷とも呼ばれる宋代の詩人も、「胸懐(きようかい)洒落なること光風霽月の如し」と言っています。闇斎はこの詩から引用したのかも知れません。
洒落とは、「物事に頓着せず、さっぱりとしてわだかまりのないこと」と、広辞苑には書いてあります。
「胸中洒落の人」は、養根塾が目指す上虚下実の人に通じる人間像です。
「有 感」
坐(そぞ)ろに憶(おも)う天公世塵(てんこうせじん)を洗うかと
雨過ぎて四望(しぼう)更に清新
光風霽月(こうふうせいげつ)今猶(なお)在(あ)り
唯(ただ)欠く胸中洒落(きようちゆうしやらく)の人
「気持のよい夕立だ。天が世の中の塵を洗い流してくれたように思える。その雨が降りやんで、どこを見ても清々しい眺めだ。光風霽月のような高潔な人は今でもいるけれども、この雨上がりのような、胸にわだかまりを持たない、スッキリと力の抜けた胸中洒落の人はなかなかいないものだ」
このように山崎闇斎は述懐しています。中国の黄庭堅(1045~1105)、またの名を黄山谷とも呼ばれる宋代の詩人も、「胸懐(きようかい)洒落なること光風霽月の如し」と言っています。闇斎はこの詩から引用したのかも知れません。
洒落とは、「物事に頓着せず、さっぱりとしてわだかまりのないこと」と、広辞苑には書いてあります。
「胸中洒落の人」は、養根塾が目指す上虚下実の人に通じる人間像です。
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