心の重荷を下ろすには
クリスチャンでなくても、次の讃美歌は、結婚式などで聞いたことがある人は多いと思います。
いつくしみ深き友なるイエスは
罪とが憂いを取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を
(讃美歌312番)
私たちはとかく、必要以上に自分を意識して力み、余計な重荷を背負いこんでしまっています。
今背負っている荷物だけでも十分に重いのに、過去の後悔という重荷を背負い、さらに未来の不安という重荷まで背負い込んでいます。そんな弱くて不完全な自分をありのままにさらけ出すことができず、肩に食い込む重荷をなかなか下ろせないのです。イエス様は、「何でその重い荷物を下ろさないの?」といぶかっているのです。
野口体操の創始者である野口三千三氏は、信じるとは、「負けて、参って、任せて、待つ」ことであると言っています。言い換えれば、信ずるとは全てを手放す勇気です。
また、道元禅師に「放てば手に満てり」という言葉があります。握りしめた手を開いてこそ無限の恵みが頂けるのです。
実際問題、負える重荷を下ろそうと思っても、なかなか下ろせないですね。心というものは、自分のものであっても自由にならないものなんです。その心をコントロールするには呼吸がいいんです。丹田呼吸を続けていると、余計な力みが消えて、自然に重荷が下ろせるようになります。
息という字は自らの心と書くように、自分の心は呼吸でコントロールできるのです。
いつくしみ深き友なるイエスは
罪とが憂いを取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を
(讃美歌312番)
私たちはとかく、必要以上に自分を意識して力み、余計な重荷を背負いこんでしまっています。
今背負っている荷物だけでも十分に重いのに、過去の後悔という重荷を背負い、さらに未来の不安という重荷まで背負い込んでいます。そんな弱くて不完全な自分をありのままにさらけ出すことができず、肩に食い込む重荷をなかなか下ろせないのです。イエス様は、「何でその重い荷物を下ろさないの?」といぶかっているのです。
野口体操の創始者である野口三千三氏は、信じるとは、「負けて、参って、任せて、待つ」ことであると言っています。言い換えれば、信ずるとは全てを手放す勇気です。
また、道元禅師に「放てば手に満てり」という言葉があります。握りしめた手を開いてこそ無限の恵みが頂けるのです。
実際問題、負える重荷を下ろそうと思っても、なかなか下ろせないですね。心というものは、自分のものであっても自由にならないものなんです。その心をコントロールするには呼吸がいいんです。丹田呼吸を続けていると、余計な力みが消えて、自然に重荷が下ろせるようになります。
息という字は自らの心と書くように、自分の心は呼吸でコントロールできるのです。
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