剣と丹田呼吸
幕末の剣豪白井亨を、勝海舟が「神通力を具えていた」と激賞したほどの名人たらしめたのは丹田呼吸でした。
8歳の時から機迅流の依田秀復に師事したあと江戸に出て、一刀流の中西子啓の門をたたき、5年間の猛稽古によって、寺田宗有、高柳又四郎と共に「中西道場の三羽烏」と称されるまでになります。
その後も武者修行をして剣の道に励んでいましたが、ある時、「世の中には多くの剣客がいるが、40歳になるころにはだれでも衰えてしまう。若くて体力のあるうちは強くても、年を重ねて体力が落ちるにつれて弱くなってしまうようなことに、一生を賭けて何になるのだ。20年間も無駄なことをしてきたものだ」と疑問を抱き悩み続けてしまいます。
そんな折、中西道場の先輩である寺田宗有を訪ね、旧交を温めます。そして、寺田の申し出によって、二人は木剣をもって手合わせをすることになったのです。このとき、寺田は63歳で、白井は28歳。35歳もの年齢差からしても勝敗の行方は歴然。しかし、寺田のすさまじい気迫に圧倒されて身体が萎縮して、蛇ににらまれた蛙のようになってしまいます。
うちしおれる白井に寺田は、毎日水をかぶることと、白隠禅師伝来の「練丹の法」を教えます。水をかぶることは途中で断念しますが、「練丹の法」は一心に打ち込みました。そして自身の練丹の法を会得して「赫気(かっき)術」と名づけました。
それは「目や耳など五官のはたらきに頼らず丹田の力で外界の動きを察知し、丹田からの赫気によって相手を圧倒してしまう」ものです。剣の相手には、あたかも丹田から腕、そして指先を伝って剣先まで力の伸びが目に見えるように感じられたのです。それを勝海舟は、神通力と表現したのでしょう。
練丹の法によって白井は、体力に頼ることのない、年齢とともに向上する天真無為の道を得たのでした。
8歳の時から機迅流の依田秀復に師事したあと江戸に出て、一刀流の中西子啓の門をたたき、5年間の猛稽古によって、寺田宗有、高柳又四郎と共に「中西道場の三羽烏」と称されるまでになります。
その後も武者修行をして剣の道に励んでいましたが、ある時、「世の中には多くの剣客がいるが、40歳になるころにはだれでも衰えてしまう。若くて体力のあるうちは強くても、年を重ねて体力が落ちるにつれて弱くなってしまうようなことに、一生を賭けて何になるのだ。20年間も無駄なことをしてきたものだ」と疑問を抱き悩み続けてしまいます。
そんな折、中西道場の先輩である寺田宗有を訪ね、旧交を温めます。そして、寺田の申し出によって、二人は木剣をもって手合わせをすることになったのです。このとき、寺田は63歳で、白井は28歳。35歳もの年齢差からしても勝敗の行方は歴然。しかし、寺田のすさまじい気迫に圧倒されて身体が萎縮して、蛇ににらまれた蛙のようになってしまいます。
うちしおれる白井に寺田は、毎日水をかぶることと、白隠禅師伝来の「練丹の法」を教えます。水をかぶることは途中で断念しますが、「練丹の法」は一心に打ち込みました。そして自身の練丹の法を会得して「赫気(かっき)術」と名づけました。
それは「目や耳など五官のはたらきに頼らず丹田の力で外界の動きを察知し、丹田からの赫気によって相手を圧倒してしまう」ものです。剣の相手には、あたかも丹田から腕、そして指先を伝って剣先まで力の伸びが目に見えるように感じられたのです。それを勝海舟は、神通力と表現したのでしょう。
練丹の法によって白井は、体力に頼ることのない、年齢とともに向上する天真無為の道を得たのでした。
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