直心影流と丹田呼吸
鹿島神宮の主祭神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、香取神宮の主祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)と共に、天孫降臨に先立ち地上界に降臨して、大国主命(おおくにうしのみこと)から国譲りの交渉を成功させ、荒々しい神々を平定したという伝説があります。
そんなこともあって、今も鹿島神宮には鹿島神伝直心影流という剣の流派が伝わっています。直心影流の特徴として、法定(ほうじょう)という型と丹田呼吸法が残されています。
その法定について記された『直心影流法定目録伝解』の一節を見てみましょう。
平日非日常共に、心丹田に有時は万事に怖れ迷う事なく、決断臨機応変の自由をなす者也。心を丹田に治むるを正直とす。丹田とは心の居処也、即ち田畑より五穀に出る如く、丹田より万事を生じ出す故丹田と云う。
(原文の片仮名を平仮名とし、送り仮名も一部改めています)
日常でも非日常でも、心を丹田に置いておくと、恐れたり迷ったりすることなく、パニックに陥らずに、どんな事態になってもその時その場に応じた決断と、自由な行動ができるということです。
そして、心を丹田に治めことが正直ということであり、丹田とは心の居場所であると言っています。即ち、米などの農作物は田畑から収穫するように、心や身体の活動、つまり「いのちのはたらき」は丹田より起こると言うのです。丹とはいのちという意味ですから、丹田とはいのちの田畑です。
人間には本来、いのちを正しく健全にはたらかせるための知恵があります。この「いのちのはたらき」に従っていれば、健やかに生きていけるのです。しかし私たちは、「いのちのはたらき」に逆らってしまいます。食べすぎたり、飲みすぎたり、夜更かしをしたり、どうにもならないことを考えすぎたりして、「いのちのはたらき」を乱します。
直心影流法定とは、本来人間が有している「いのちのはたらき」を、あるがままに顕現するための鍛練の型です。その型の中心は、心を丹田に治めることです。日常生活においていつの間にゆがんでしまった「いのちのはたらき」を、本来の正しい姿にもどすための型なのです。
五穀が生え出るのが田畑であるならば、心が生育するのは丹田です。「いのちのはたらき」の場である丹田は、田畑と相似的な関係にあります。自分の身に備わった豊饒な田畑である丹田を、丹田呼吸法で練りあげていきましょう。
そんなこともあって、今も鹿島神宮には鹿島神伝直心影流という剣の流派が伝わっています。直心影流の特徴として、法定(ほうじょう)という型と丹田呼吸法が残されています。
その法定について記された『直心影流法定目録伝解』の一節を見てみましょう。
平日非日常共に、心丹田に有時は万事に怖れ迷う事なく、決断臨機応変の自由をなす者也。心を丹田に治むるを正直とす。丹田とは心の居処也、即ち田畑より五穀に出る如く、丹田より万事を生じ出す故丹田と云う。
(原文の片仮名を平仮名とし、送り仮名も一部改めています)
日常でも非日常でも、心を丹田に置いておくと、恐れたり迷ったりすることなく、パニックに陥らずに、どんな事態になってもその時その場に応じた決断と、自由な行動ができるということです。
そして、心を丹田に治めことが正直ということであり、丹田とは心の居場所であると言っています。即ち、米などの農作物は田畑から収穫するように、心や身体の活動、つまり「いのちのはたらき」は丹田より起こると言うのです。丹とはいのちという意味ですから、丹田とはいのちの田畑です。
人間には本来、いのちを正しく健全にはたらかせるための知恵があります。この「いのちのはたらき」に従っていれば、健やかに生きていけるのです。しかし私たちは、「いのちのはたらき」に逆らってしまいます。食べすぎたり、飲みすぎたり、夜更かしをしたり、どうにもならないことを考えすぎたりして、「いのちのはたらき」を乱します。
直心影流法定とは、本来人間が有している「いのちのはたらき」を、あるがままに顕現するための鍛練の型です。その型の中心は、心を丹田に治めることです。日常生活においていつの間にゆがんでしまった「いのちのはたらき」を、本来の正しい姿にもどすための型なのです。
五穀が生え出るのが田畑であるならば、心が生育するのは丹田です。「いのちのはたらき」の場である丹田は、田畑と相似的な関係にあります。自分の身に備わった豊饒な田畑である丹田を、丹田呼吸法で練りあげていきましょう。
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