風と息
「風」
誰が風を 見たでしょう?
ぼくもあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通り抜けてゆく
(クリスティーナ・G・ロセッティ)
(西條八十 訳)
風は目には見えないけれども、存在は感じられます。そして風は宇宙の呼吸のように感じられます。
ヘブライ語の「ルアッハ」という言葉は、風という意味のほかに、霊、息という意味が含まれているそうです。風も霊も息も目には見えないけれども、確かに在るという点で同類だというのでしょう。
ヘブライ語で書かれた旧約聖書の『創世記』に、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。」とあります。この「いのちの息」こそ、「ルアッハ」ということです。
まさに、風は神の呼吸であり、言葉を変えればいのちの息です。我々はそのいのちの息を吹き込まれて吸気とし、それをお返しすることを呼気としているわけです。
それをハッキリと体感するには、日常の無意識の呼吸を、意識的な呼吸にかえてみることです。すると、清明の根源である宇宙と自分とが、呼吸を通してつながっていることが実感できます。息を吸うことは神の恵みであり、吐くことは、自分を生かし給う神様への感謝のメッセージであるように感じられます。
古人は、風に大いなるものの息を感じたに違いありません。それは、風の字を含む熟語をみると実感できます。
風景・風情・風光・風月・風致・風姿・風刺・風俗・風習・風采・風格・風貌・風潮・風土・風雲・風雅・風流・風味・風物・風合・風評・風紀・・・
これらの熟語の風からは、神の息づかい、宇宙の息吹が感じ取れるのではないでしょうか。いのちの根源の呼吸(息)であるという微妙な感触を、風という文字で表しているのです。
私たちはいのちの根源とのつながりを感じた時、安心と愛に充たされます。それを左右するのは、風をいのちの根源の息として見抜く感性であり、その感性は丹田呼吸法の実践によって養われるのです。
誰が風を 見たでしょう?
ぼくもあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通り抜けてゆく
(クリスティーナ・G・ロセッティ)
(西條八十 訳)
風は目には見えないけれども、存在は感じられます。そして風は宇宙の呼吸のように感じられます。
ヘブライ語の「ルアッハ」という言葉は、風という意味のほかに、霊、息という意味が含まれているそうです。風も霊も息も目には見えないけれども、確かに在るという点で同類だというのでしょう。
ヘブライ語で書かれた旧約聖書の『創世記』に、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。」とあります。この「いのちの息」こそ、「ルアッハ」ということです。
まさに、風は神の呼吸であり、言葉を変えればいのちの息です。我々はそのいのちの息を吹き込まれて吸気とし、それをお返しすることを呼気としているわけです。
それをハッキリと体感するには、日常の無意識の呼吸を、意識的な呼吸にかえてみることです。すると、清明の根源である宇宙と自分とが、呼吸を通してつながっていることが実感できます。息を吸うことは神の恵みであり、吐くことは、自分を生かし給う神様への感謝のメッセージであるように感じられます。
古人は、風に大いなるものの息を感じたに違いありません。それは、風の字を含む熟語をみると実感できます。
風景・風情・風光・風月・風致・風姿・風刺・風俗・風習・風采・風格・風貌・風潮・風土・風雲・風雅・風流・風味・風物・風合・風評・風紀・・・
これらの熟語の風からは、神の息づかい、宇宙の息吹が感じ取れるのではないでしょうか。いのちの根源の呼吸(息)であるという微妙な感触を、風という文字で表しているのです。
私たちはいのちの根源とのつながりを感じた時、安心と愛に充たされます。それを左右するのは、風をいのちの根源の息として見抜く感性であり、その感性は丹田呼吸法の実践によって養われるのです。
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