肚の文化
白隠禅師(1685<貞享2>~1768<明和5>は、「我がこの気海丹田 総に是我が本分の家郷 家郷何の消息かある」と言いました(『夜船閑話』)。自分という存在の本質は腹にあるのだということです。
ドイツの哲学者、カールフリート・デュルクハイム(1896~1988)は、「人間は肚において、自己が生命として存在すること、しかし、なおあるべき存在に達せず、萌芽の状態であること、そして、本質的にかなった人格としての自分はだれなのかを、体験するのである」( 麗澤大学出版会刊『肚人間の重心』)と、白隠の説を裏付けるようなおことを言っています。
生命の本質は肚にあり、その本質を自覚するのは、肚をおいてないということで、両者はどちらも、肚(腹)に人間存在の中心を置いています。
デュルクハイムはなおも言います。「人生の幸運は、両極を互いに一体化する道の上にしかない」と。人間の進化は大脳に依るところが大きいのですが、大脳は物事を分析するための器官であって、「両極を一体化する」はたらきをもってはいません。
両極を一体化し、統一を実現し、「根源的中心を知覚するとき、そこに自分の根を下ろすとき、すなわち『肚』をもったときに成就する」と、デュルクハイム伯爵は述べているのです。 分析と統一を調和統合するのは肚だということです。
江戸時代の白隠禅師の肚の文化について、合理性一辺倒と思えるドイツ人哲学者が主張するところに、大変興味深いものがあります。
ドイツの哲学者、カールフリート・デュルクハイム(1896~1988)は、「人間は肚において、自己が生命として存在すること、しかし、なおあるべき存在に達せず、萌芽の状態であること、そして、本質的にかなった人格としての自分はだれなのかを、体験するのである」( 麗澤大学出版会刊『肚人間の重心』)と、白隠の説を裏付けるようなおことを言っています。
生命の本質は肚にあり、その本質を自覚するのは、肚をおいてないということで、両者はどちらも、肚(腹)に人間存在の中心を置いています。
デュルクハイムはなおも言います。「人生の幸運は、両極を互いに一体化する道の上にしかない」と。人間の進化は大脳に依るところが大きいのですが、大脳は物事を分析するための器官であって、「両極を一体化する」はたらきをもってはいません。
両極を一体化し、統一を実現し、「根源的中心を知覚するとき、そこに自分の根を下ろすとき、すなわち『肚』をもったときに成就する」と、デュルクハイム伯爵は述べているのです。 分析と統一を調和統合するのは肚だということです。
江戸時代の白隠禅師の肚の文化について、合理性一辺倒と思えるドイツ人哲学者が主張するところに、大変興味深いものがあります。
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