心と体は本来一つ
観念だけでは、心と躰(からだ)の真の統一は不可能である。
されば真の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
森 信 三(1896(明治29)~1992(平成4)
上の文章は、『森信三 一日一語』より引用したものです。本書の編纂者である寺田一清さん(森先生の弟子)は、次のように注を付しています。
これが「心身相即」の理と言われるもので、「肉体に座を持つ」とは、一つには立腰であり、いま一つは臍下丹田と言われるものです。
心と体は、本来一つのものですが、現状は別々にはたらかせてしまうのが常です。心ここに在らざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず、というのは、そのために起こることです。
身心を統一させるためには、体に統一点を作ることです。その統一点こそ臍下丹田にあります。臍下丹田に重心を落とし、心もそこに鎮めるように努めるのです。そのとき、臍下丹田とは表裏にあたる腰を立てる事が必要です。
身心を統一することを、観念で実現することは難しいことです。この現象界に生きる我々にとって認識しやすい肉体に座を持つことのほうが容易なのです。
されば真の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
森 信 三(1896(明治29)~1992(平成4)
上の文章は、『森信三 一日一語』より引用したものです。本書の編纂者である寺田一清さん(森先生の弟子)は、次のように注を付しています。
これが「心身相即」の理と言われるもので、「肉体に座を持つ」とは、一つには立腰であり、いま一つは臍下丹田と言われるものです。
心と体は、本来一つのものですが、現状は別々にはたらかせてしまうのが常です。心ここに在らざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず、というのは、そのために起こることです。
身心を統一させるためには、体に統一点を作ることです。その統一点こそ臍下丹田にあります。臍下丹田に重心を落とし、心もそこに鎮めるように努めるのです。そのとき、臍下丹田とは表裏にあたる腰を立てる事が必要です。
身心を統一することを、観念で実現することは難しいことです。この現象界に生きる我々にとって認識しやすい肉体に座を持つことのほうが容易なのです。
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